SMについての一考察(あるいは「女王様」論)
2009-02-01


今日の日記は長い上にいつも以上につまらないのでよっぽどお暇でない方以外はお帰りいただいた方がよろしいかと。

精神分析学の創始者であるフロイトは、後年の論文のいくつかでマゾヒズムについて論じています。
(ex.「マゾヒズムの経済論的問題」岩波書店刊フロイト全集第18巻所収)

当該論文において、フロイトはマゾヒズムを「性源的」「女性的」「道徳的」の三種類に分け、後年の思想の特徴である「エス」や「死の欲動」といった考え方を交えながら、その依って立つところを解き明かしていきます。

その理論をここでご紹介することは、果てしなく長くなるだけでなく、そもそも僕の能力では無理なので、こちらでは割愛しますが、後に若干フロイトの論考から拝借してくる部分もあろうかと思います。

さて、僕はSとMの関係をこのように考えるのです。
即ち、Sは「受け入れさせる人」、Mは「受け入れる人」。
もう少し分かりやすく、かつ逆説的な言い方をすれば、Sは「奉仕する人」、Mは「奉仕させる人」。

残念ながら僕にはそういう性癖が全くない(何故ないのかは最後にちょっと触れます)ので、SとMの関係性を極めて客観的に眺めることができるのですが、身も蓋もなくいえば「女王様ってのは大変だなあ」と思うわけです。
Mの人は基本的に何もせずにじっとしているだけですが、Sの人はあれやこれやとMの人にしてあげる。
殊にロープで縛り上げる際の手際などは、不器用で手元不如意な僕はただただ見とれるばかりです。

直接の行為はどのような形を取るにせよ、Sの人は自分の存在を受け入れさせるべく相当のエネルギーを使ってMの人に働きかけ、Mの人はがま口の蓋を開けてただそれを受け入れるだけなわけです。
一般的な捉え方とはおそらく異なるのだと思いますが、僕はSの人は面倒見が良くて優しく、Mの人は気ままでどちらかといえば冷淡である、というふうに感じています。
実際、僕が接したことのある女王様はみな頼りがいがある雰囲気で、優しい眼をしています。
見た目は確かに怖いですが、実際には温かそうな人ばかりです。

フロイトは前述論文の中で、死の欲動をリビード(一般的にはリビドーと称されていますが、ここでは岩波版全集の用語に従ってリビードと記述します)が無害化するためにその欲動を外界に向かわせたものがサディズムで、それが何らかの理由で内向きに働き、そこでリビードと共に拘束されたものがマゾヒズムであると(ものすごく簡略化すれば)述べています。
要は元々二つは同じものだと言っているわけですが、少なくとも人間観察的な見方をしているかぎりにおいては、どうもそのようには思えません。

少なくとも女王様に関するかぎり、実に建設的で、簡単に言えば「デキる」女性でなければ務まらないと思います。
僕はこの業界に聡いわけではないので正確なところは分かりませんが、僕の知るかぎり女王様が店を持つことはあってもMの人が店を持っているという話は聞いたことがありません。
女性が、殊に(あくまで法律上の)風俗店を経営するとなればかなりの行動力と才覚が必要なわけで、そういった仕事は確かに女王様にはうってつけ(おかしな言い方ですが)です。

実際、ビジネスマン的な視点から女王様を見ると、こういう女性と仕事をしたらかなり良い仕事ができるんじゃないかな、と思うことがままあります。

ここまできてふと、女王様というのはサディストの女性という意味ではなくて、「女王様」というまた別種の人格のあり方なのではないかと思うのです。
無論中には生粋のサディストである(つまり破壊欲動の申し子である)女王様もいらっしゃるでしょうが、基本的には(少なくとも精神分析的な意味での)サディズムと女王様という存在は切り離して考えることが必要だと思っています。

少し別の切り口から考えてみましょう。

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